『楢葉町』  きっかけは、ある一枚の写真だった。  多田さんが私に、二本松で田畑の除染作業にボランティアで参加した話をしていた時のことだ。二本松は福島第一原発より60キロ近く離れてはいるが、よく知られている通り放射能による土壌汚染が深刻な地域のひとつである。
その時多田さんが私に見せた新聞記事に、私は目を奪われた。警戒区域のため立入禁止になっている地域の田畑が、一面セイタカアワダチソウに覆われてしまっている写真だった。
そこが立ち入れない場所だから、田畑が荒れるのは仕方ない。今後どうなるのか、誰にも行く先は見えない。そのことがダイレクトに伝わってくる、重く辛い風景だった。
 今、北関東や東北には、放射能への対策に頭を悩ませる場所が多くある。そして生産者は農業を続けていくことの困難と戦い続けている。しかし福島第一原発に最も近い、警戒区域の置かれた現状は、またそれとも違う気がした。  何が起こっているのか。確認せずにはいられない気持ちになった。  多田さんと、デザイナー、カメラマン、そして私の4人は、車で行けるところまで原発に近づいて、その周りの田畑を見にいくことに決めた。ただの野次馬になるかもしれないという可能性はよく分かっていたが、そこで何が起こっているか知りたいという気持ちを抑えることができなかった。
 11月30日金曜日、私達は一台の車に乗り合わせて、一路いわき市方面へ向かった。常磐道を北上して、行けるところまで行く計画だった。雲が多く空は暗かったがさほど寒くもなく、北へ向かうには悪くない天気だった。  朝10時に東京を出発して、途中休憩を入れながらいわき湯本インターに到着したのが午後1時。地震以降休業していたスパリゾートハワイアンズが、幾多の困難を経て今年の2月8日に営業を再開したことも記憶に新しい。  いわき市は、福島で起こった悲劇の舞台のひとつである。広大な面積をもつ市のごく一部が屋内避難地域に指定されてしまったため風評被害が起こり、物流が完全にストップした。市民は食べものや日用品を手に入れることも困難になり、たくさんの商店が地震の直接的被害を免れながらも閉店へと追い込まれた。
 私はこの辺りからすでに、住む人が少なくなっているのではないかと思い込んでいた。なので、名物だという「福島餃子」をいわきで食べていこうという多田さんの提案は少々不謹慎にも思えた。被災地に入って一体どんな風に居ればいいのか、落ち着きどころが分からずに戸惑ってしまっていた。  しかし、実際に降り立ったいわきの町は、思っていたものとは全く違っていた。常磐道を降りて、陸前浜街道を北上する道路沿いにはコンビニやホームセンター、スーパーが軒を連ねており、どこにでもある地方の町のように見えた。もちろん、初めて来た土地なので地震前の活気が戻っているとは言えないが、それでもしっかりとした、人の生活が感じられた。
 ラーメン屋に入り、巨大な餃子と肉まん、丼に並々と入った麺類を無心に食べた。若くはない面々には苦行に近い量だったが、まるでただの遠足のように思える雰囲気に、素顔の福島を見た気がした。  多田さんが兼ねてから言っていたのは、福島をはじめ放射能の線量が高いと言われる地域を孤立させてはならないということだった。町の営みに当たり前に寄り添って、楽しむ。そんな自然な態度が腑に落ちて、餃子の味が一層美味しく感じた。心が緩んだ瞬間だった。
 常磐道に戻って再び北上する。突然、車の流れが減った。いわき四倉インターを過ぎて、次の広野で道路が封鎖されているからだ。表示板には、広野の下に「南相馬」の文字があり、出口までの距離は塗りつぶしてあった。
 しかし高速道路から見渡せる広野町の田畑は、荒れているところもあるものの収穫後の田んぼもあって、人の住む家があった。写真で見たような荒れ果てた雰囲気とは違っていた。  広野で常磐道を降りて陸前浜街道に戻るとほどなく、右手にJビレッジが現れる。ちょうどこの辺りが広野町と楢葉町の境であり、警戒区域の境界線が引かれた場所でもある。楢葉町は2012年8月10日に警戒区域指定を解除され、避難指示解除準備区域となった。今では、宿泊はできないが町内に立ち入ることはできる。
 境界線があった場所を通り過ぎた途端、車窓の風景が一変した。辺りから人の気配が全くなくなり、写真でみた、田畑一面にセイタカアワダチソウが生い茂る様子が現実のものとして目の前に現れた。ついに写真の現場にたどり着いた、そう思って、急に体が緊張した。
 だが、すぐに町の息吹とは違う人のざわめきが現れた。田畑のあちこちに、刈り取られたセイタカアワダチソウの塊が黒いシートに覆われて並べられている。防護マスクをした人たちが、農具を動かして草を刈り取っている。  目の前に広がる田畑がモザイクのように部分的に整備されて、まるで工事現場のように、あちこちから機械音が聞こえてくる。
そんな異質な風景を、鮮やかに色づいた里山が取り囲んでいる。  田畑は放置されて荒れ果てていたのではない。すでに復興に向けて動き始めていたのだった。
 多田さんは、現場で作業する方々に話を聞いた。  セイタカアワダチソウを全て刈り取ってしまわないと、種が落ちて次の年もまた覆われてしまう。根を張る力が強く、土の養分をどんどん吸い取ってしまうから、数年続いて生えてしまったら田んぼとして使えなくなると聞いている。  豊富に与えすぎた化学肥料が、セイタカアワダチソウの繁殖を促進してしまう。だから冬のうちに刈り取ってしまって、土を反転させ薬品を入れる除染を行なっているということだった。
 広野がこの除染方法でいけたから、と一人の作業者が言った。隣接する町であるのに、境界線の中にあった楢葉町と外にある広野町では復興に雲泥の差がある。一足早く復旧が始まった広野町には、かろうじて田畑が生き残り、ライフラインも復旧して少しずつ生活が戻りつつある。しかし、楢葉町はまだ、水道すら通っていない。土地も荒れ果ててしまった。 「それでも、自分たちの食べるものは、自分たちで作れるようにしないと」。
 彼はそう続けた。  刈り取ったセイタカアワダチソウは処分場もまだ決まっていない。田畑がよみがえるまでには、途方もなく長い道のりがあるように見える。でも、少なくとも私達が話をした作業員は、まだ諦めていない。そのことが、私の胸を強く締め付けた。
 境界線のあった場所のすぐ手前に、ガソリンスタンドが営業していたので立ち寄ったところ、店主の男性が話しかけてきた。  上下水道が復旧していないなか、つい最近手を洗う水だけは出るようにしてもらった、と店主は言った。
除染の作業車用に店舗を再開することを町は望んでいたが、親会社はなかなかその要望に答えようとしなかった。そんななか、店主は自分の意思で、店舗を開くことを決めて戻ってきたのだという。
 楢葉町の空間線量は、今もう毎時0.1マイクロシーベルト前後しかない。だがライフラインがダメで、原発の事故で仕事もなくなった。広野町では工業団地が再開にこぎつけたが、楢葉町にはいまだ雇用のあてはない。田畑はもう無理かもしれない。だから人が戻ってこられない。店主は町民の思いを代弁するかのように語り続けた。
「でも、頑張るしかないんですよ」。


 その言葉の重みは、私たちには到底計り知れない。でも、私は繰り返した。頑張るしかない。  日本で一番過酷な状況にあるこの田畑で、私達「外側の人間」は何ができるだろうか? 写真:竹下雅哉
文 :松下祥子